“50代の落書き”「フィフティズ・グラフィティ」のコンセプト

カテゴリー「アタゴオル・ますむらひろし」の12件の記事

2012年2月27日 (月)

「アタゴオルは猫の森」18巻 ここに完結?祈りと希望の最終巻

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帯の表には「ここに完結!」、裏表紙には「終止符」「最後の8編」という言葉が並びます。約40年のアタゴオル物語の系譜は、この18巻をもって本当に終焉を迎えるのか?

 

あとがき「アタゴオル余波18」のなかで、ますむら先生はこの「猫の森」をアタゴオルシリーズとしては「第5期」と規定されています。つまり最初のシリーズを「マンガ少年」連載の「アタゴオル物語」(連載時は「ファンタジーゾーン」)ではなく、「ガロ」時代の「ヨネザアド物語」とされているようです。としても初出は1975年ですのでまだ40年たっていません。先生のプロデビュー(「霧にむせぶ夜」で手塚賞準入選)の1973年まで遡ってもまだ足りません・・・しかるになんで裏表紙に「40年余りに終止符を打つ」と書かれているのか疑問です!というのは揚げ足取りか?それはさておいても、また途切れ途切れの連載とはいえ、トータルでは本当に長きにわたり描いてこられた「ライフワーク」な作品であることは間違いないでしょう。


 

以前書いた通り、自分は「マンが少年」時代に初めて作品に触れ、その独特の夢の中のような不思議な雰囲気やストーリー、時に暴力的なまでの過激でユニークな発想に衝撃を受け、その後朝日ソノラマの単行本「アタゴオル物語」とのプチ運命的な再会を経て、30数年に亘り読者であり続けたわけです。「アタゴオルは猫の森」は確か1999年のスタートと思いましたが、世紀をまたいで12年も連載を続けられたことになり、アタゴオル史上最長のシリーズというわけです。当方も結局ずうっとお付き合いしてきたものの、単行本のみのヘタレ読者でしたので、掲載誌のコミックフラッパー12月号で連載が終わっていたことを知ったのは2月になってますむら先生のツイッターのフォロワーになってから。あわててamazonに18巻の予約をいれたという体たらくでした・・・いずれにしても、自分が今も唯一読み続けていたマンガの連載が終わってしまったわけです・・・

 
 

17巻のあとがきで大震災の事に触れられていましたが、18巻はまさに震災後の混乱期に様々な自問自答を繰り返しながら描かれた、そういう意味ではそれまでとはバックグラウンドのかなり異なる作品群と言えないこともありません。先生もあとがきで、執筆時の苦悩について吐露されています。ただ、それは決してダイレクトな怒りや憤りのみの独白ではなく、そう言ったものを踏まえて飲み込んだうえでの、もう一つ上位からの優しい目線が自分には感じられました。作品からも、たとえばもっとお若かった頃のもののような厳しい断罪の表現は無く、むしろ御霊に祈りをささげるような、そして生きている者には希望を与えるような、切なくも温かいストーリーが主体と感じました。最終話「MARIMO」のラスト、ヒデヨシの最後のセリフからも、こういう時こそ自分を大切にして、夢を持って生きてくださいという先生のメッセージが強く感じられました。こういうメッセージ性は本シリーズ各話の最後のセリフには頻繁に登場していましたが、18巻の多くの作品ではいつもよりもより強くそれが感じられたのは自分の思い込みでしょうか・・・

  
 

 

連載終了の理由は分かりません。またこれから先、場所を変えて「第6期」が始まるのかは現時点では恐らく先生にもわからないでしょう。ただ、アタゴオルは以前にも書きましたが平和な「パラレルワールド」の出来事ですので、「現世」の問題に強く物申すには基本的に不向きな設定と思います。多くの初期作品のような、また若き日の「コスモス楽園記」や「夢降るラビットタウン」などのような、ストレートな物言いが出来る現実世界とリンクした新たな舞台設定を求めて先生がアタゴオルを去られたのかどうかは分かりません。が、またそうだとしたらそれはそれでついて行こうとは思いますが、同時に、やはり、いつかはまた、この素敵な「パラレルワールド」に、ヒデヨシやテンプラたちと共に帰ってきていただきたいと心から願うものであります!本当にお疲れ様でした!でもいつかまた、きっと・・・

2010年12月31日 (金)

ますむらひろし「円棺惑星」 ダークでホラーだがグロではない

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年末大掃除で本の整理をしていたら久しぶりに出てきて、ミイラ取りがミイラになったわけですが。載っているお話もミイラとは言いませんがますむら先生の作品集の中でもとびきりダークサイドの短編群です。この時期の作品は比較的、社会批判が強めなのかな。

  
 

1991年~1993年に朝日ソノラマの「眠れぬ夜の奇妙な話」というひと癖ありそうな雑誌の創刊間もなくの頃に連載された作品をまとめたもののようです。「眠れぬ・・・」はやがて「ネムキ」とタイトルを変え、朝日新聞社より現在まで刊行されているそうですが、残念ながらこのおじさんは、少女マンガ雑誌までは守備範囲ではありませんのでね、よく存じません。先生の作品では、「ギルドマ」(1997~1999)も「ネムキ」連載だったそうで。


  

この時期はますむら先生の執筆活動としても非常に繁忙であったのではないかとおもいます。「アタゴオル玉手箱」の終盤、「夢降るラビットタウン」、「オーロラ放送局」、「ジャリア」という名だたる代表作がラップしており、あのダーク系作品の最高峰、「アンダルシア姫」につながっていきます。


  

7作の短編がおさめられていますが、初出は巻末の「KARA」が早かったようです。ただこの作品のみ設定が異なっている(現代の日本)ためこの扱いになったようで。主題は巻頭からの6作品ですね。SF設定で、時代的にはかなり未来、舞台は地球上ではなさそうな・・・はっきり描かれていないとおもいますが、極めて地球に似た他の天体かな。はるか昔に地球を食いつくした、なんて表現がありますのでね。

  
 
  

全体にかなりおどろおどろしい雰囲気がありますし、化け物的な方々も大勢出てくるのですがね、基本はやはり先生らしく、原因は人間の醜い心にあり、という点では一貫しています。たとえ直接的でなくても、遠因としてそこに行きつくわけで。また、最後には必ず彼らがその報いを受けるという点もね。そういう意味では、まさにますむらダーク作品集の王道といえる作品です。

  
  

主人公、というか狂言回しの役どころは受羅(じゅら)君という賞金稼ぎ(?)の青年と、怪しい怪しい科学者(?)ベロナ伯爵の2人です。「ラビット・・・」のペン太と勾玉博士を10倍ダークにしたようなキャラかな。悪に対して彼らが最終の裁きを加える話が多いのですが、受ける印象としては「正義の味方!」とか「正義の制裁!」といったすっきり快刀乱麻な感じではなく、なんとなく心に引っかかりが残ったまま終わります。この引っかかった感じが、ますむら先生のダーク系の作品に共通している感覚ではないかとおもいます。主人公ですら、起こっていることをどこか客観的に突き放して見ているような感覚、そうなって当然だろうという感じの、相手を冷めた目で見ている感覚、とでもいうのでしょうか。

  
 

そういうクールな、言いかえると非常に厳しい目線が、作品とその表現にある種の節度感を与えている気がします。そしてそれがある種の品性につながっていて、決して下卑た表現まで落ちていかない背景なのかなともおもいます。けっこう見方によってはグロテスク、と言えるような表現もあるのですが、自分の基準ではギリギリその手前で踏みとどまって、警鐘を与えるための手段として機能している(させている)ように感じます。ますむら先生にとって、「言いたいこと」は驕れる人間への警鐘であり、オドロオドロしさはあくまでも「表現手段」でしかないからなのでしょう。

  
  

まあ正直なところ、しょっちゅう読んでいると気が滅入るばかりの作品集なのでね、普段はしまってあったわけですが、今日は大晦日。それにふさわしい、汚れきった煩悩を洗い清める「除夜の鐘」効果のあるマンガです、とは言い過ぎでしょうかね?

2010年8月28日 (土)

ますむらひろし「夢降るラビットタウン」 もう一つの世界観の到達点

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ますむら先生の作品の多くは、人間と動物が対等な関係で暮らすアナザーワールドが舞台です。ただ、その設定や位置付けはそれぞれビミョーに異なります。一つはどんな動物が主役かという点。もう一つは現実の人間世界との関係において。

  
 

最初にお断りしておきますが、この先はあくまでも個人的見解です。また、べつに「ますむらひろし論」を仕掛ける気はありませんので念のため。あくまで個人的な思いつきの意見です。真相は、もし自分が存じ上げないますむら先生のインタビュー記事などがあればそちらをご確認ください。事実と違うことを言ってましたら先にあやまりますね。どなたかご教示願えれば幸いです。

  
 

知っている限り、ますむら先生の作品はその初期から、人間とネコが対等な関係、もしくは人間界に人間並みの体格と知能をもったネコ族が関わる、といった作品が多くみられ、これは非常に強い特徴となっているようです。ネコ以外の動物も出てきますが、それはあくまでも動物としてであって、ネコのみが人間同様の位置付けとされていたようです。(ジャングル・ブギやヨネザアド物語の、犬or狼やネズミ人間?の兵隊のような例外もありますが・・・)

 
 

これはデビュー作の「霧にむせぶ夜」(1973年)から「アタゴオル物語」(1976年~1981年)を経て、1983年ごろの「宮沢賢治童話集」あたりまで、「ネコのみ対等」の時代が続くと考えます。この間、他の動物を主人公クラスに据えた作品を知りません。また、原作のある賢治系はともかくとして、オリジナル系作品は80年代に入る頃には一部短編をのぞき、その世界観は現実の地球上の出来事という枠から、スーパーナチュラルな別世界の出来事へと完全にシフトしたようです。

  
  

ところが1984年、「クリーム」という雑誌?に、「ラビット・タウン」という作品が掲載されます。2作にわたるこの短編(①星座泥棒 ②腕時計収集家)には、おそらくネコ以外では初めて、「ウサギ」が人間と同格で登場します。その名は「ポンペイ」。もっとも、ストーリー上最初に登場するウサギの称号を得るのは、勾玉博士の助手の「クシマ君」ですけどね。(この作品については、所有している朝日ソノラマ刊の「ますむらひろし作品集8巻:アタゴオル・ゴロナオ通信」に掲載されています)

  
  

このお話、世界観としては、ウサギを除けばアタゴオル物語と比較して、より現実の人間世界に近い設定です。というか、ほとんど現実の「地球上のどこか」というイメージです。それは、例えば「天文学」が作品のひとつの骨格なのですが、登場する星座名はカシオペアを始め、基本的には現実のものと同一です。これがアタゴオルだと、「ヒョウタン座」とか「つる巻き星団」とか、実在しない名前になります(「木星」割りリンゴ酒なんていうのもあって、ビミョーではありますが、それはあげあし取りでしょう・・・)。文明度も、現実世界にかなり近い感じの設定になります。もはや望遠鏡に葉っぱが生えていたりはしません。ただ、ある程度の超科学的もしくはスーパーナチュラルな事件や出来事は起こります。この作品はとりあえずこの2短編のみで一旦終了したようで、どうも実験的な臭いを感じます。

  
 

そしてウサギ以外でのもう一つの「ネコ以外系」が「ペンギン」ですね。こちらはいつから描かれ始めたのかが正直よく分かりません。おそらく「カリン島見聞記」(2003年ポプラ社刊、上下巻)に掲載されている作品の初期のものは、絵柄的に「ラビット・タウン」もしくはその少しだけ前あたりの雰囲気に感じますので、1983年から1984年ごろからスタートしたのではないかと勝手におもっています。つまり、ウサギとペンギンの2系統で、ネコ以外の世界観の模索を始めたのかも。(*ますむら先生のHPをよく読んだら、1984年スタートと書いておりました・・・)

  
 

この作品の設定は、江戸時代あたりにペンギンの住む太平洋の孤島「カリン島」に日本人のサムライが漂着し、ペンギンたちに文化文明を伝えた。それをきっかけにその島のペンギンたちは独自の進化を遂げた、というものです。のちの「ペンギン草紙」(1988年)に引き継がれる設定ですが、要は「ラビット・タウン」以上に現実社会との関係付けが強いわけです。

  
  

その設定の「ネコ系」へのフィードバックが、1986年からの「コスモス楽園記」となるのでしょうか。アタゴオルとは違い、基本的に「この世界の出来事」として 「人間と対等なネコ」を登場させています。ここでは「遺伝子操作と記憶の植え付け」という設定を使って、その進化の理由を説明しています。こういう設定を用いることによって得たものはいろいろあると思 いますが、連載漫画の形式の中で、「動物と共生しながらも現実世界とコミュニケーションできる」世界観を確立し、その設定可能範囲を大幅に拡げる事に成功したことが最大の成果かなと思います。

  
 

そのように「活躍のフィールド」を拡げることに成功したますむら先生が、80年代終盤から約10年にわたり、そのフィールドを見事なまでに縦横無尽に走り回った(彼流にたとえるなら「ストイチコフ様状態」でしょうか)作品が、おまたせしました、今回の記事の主題の「夢降るラビット・タウン」だとおもっています。この作品、コアになる登場人物の設定は1984年の「ラビット・タウン」を引き継いでおりますが、「コスモス」と違い、ウサギの進化の理由には触れられていません。しかし個々のキャラクターはかなり変更/強化されていますし、「骨平太」と「霧吹」という強烈な「世俗の代弁者」を新登場させたり、現実世界との並存を匂わせる要素(例えばローマ字表記の看板など)を入れ込む事で、現実社会に向けた作者からの提言をダイレクトに反映/表現できるようにその世界観を再構築しています。

  
  

なので「賢治」や「ハップル」、「スペイン」ネタから挙句の果てには「ワールドカップ・アメリカ大会見聞録」をむりやり(?)描いてしまうなど、先生ご自身の趣味趣向までかなり濃密に作品に取り込むことに成功しておりまして、そういう意味ではかなりご自身としては楽しまれたのではないかと推察いたします。時事ネタや実社会ネタとファンタジーの架け橋的な位置付けですかね。骨平太の行状を見るにつけ、少々やりすぎ感も感じるところですが、先生にとってこの作品がある種「あばれ場」としての意味を持っていたとしたら、こういうキャラ設定もありかなと思います。まあ、それを通信教育会報に(10年も!)描くところが凄いですがね。逆に、すでに作り上げてしまった世界観に縛られている同時期の「アタゴオル玉手箱」の方が、そういう意味ではしんどかったのかも。

  

 

21世紀に入ると、「アタゴオルは猫の森」を中心にファンタジー世界に帰ってこられた(?)ますむら先生ですが、さすがにアタゴオル世界ではダイレクトな社会批判は行いにくいでしょうし、また、作風自体も(もちろんよい意味で)円熟して丸くなられた印象が強いです。「骨平太アゲイン!」はもうないかもしれませんが、それでも「夢降るラビット・タウン」はますむらひろしという一人の重要かつとても個性的な作家の作品歴の中で、自己の代弁性という意味で極めて重要な位置付けといえる作品とおもいますし、持てる方向性の一つについて極めたものだとも感じているべっさあせるべっさあ・・・だったかな?長い作品ですが、大好きな作品でもあります。機会があればぜひご一読ください。

2010年7月 3日 (土)

ますむらひろし「コスモス楽園記」 もしもこの世界にアタゴオルが実在したら?

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アタゴオル物語の設定は、おそらく、パラレルワールドでの出来事でありましょう。なので、ますむら先生一流の文明批判や自然破壊への怒りも、かなりオブラードに包まれた印象。ところがこの「コスモス楽園記」では、かなりダイレクトにそれが表現されています。
  
  
  
  

アタゴオル物語も、ごく初期のコンセプトが固まりきってなかった頃には、現実世界との接点を感じさせる表現が出てきましたが、現在では完全に別の世界の出来事と割り切った設定になっているようです。なのでどうしても切迫感が無い。そこがあの、独特のゆったりした感覚の源であることには違いありません。 

  

ただ、だからこそ、若き日のますむら先生にしてみれば、もっとダイレクトな物言いが出来る場を求めていたのではないかとおもいます。この「コスモス楽園記」(1986~1989コミックバーガー連載)は、表面事象ではヒデヨシのコピーのような「文太」やパンツの分身のような「煙鳥」など、アタゴオルの焼き直し的設定に見えないこともありません。しかし決定的な違いは、基本設定がパラレルワールドではなく、まさに(発表当時の)現代である、という点です。これにより、登場人物?の世の中への怒りはそのまま現代社会への怒りに直結することになるわけです。

  
  

アタゴオルの基本設定では、最初からネコと人間は等価の位置づけです。また登場人物たちは、森の住人というゆるいつながりはありますが、住人の義務として何をしなければならないというような、コミュニティの規則は特に規定されていないようです。時折、旅先で国家政府や軍隊などの設定は顔をだしますが、話を分かりやすくするための方便の域を出ていません。そんなアタゴオルに対してこのコスモスでは、まず登場するネコ自体が20世紀の人間が作り出したミュータントという設定であり、彼らの暮らすロバス島も生態系は人為的に狂わされているわけで、スーパーナチュラルなアタゴオルとは基本的に違います。彼らはまた人間の世界を忠実に模倣した町や政府や会社などの組織を作って、非常に社会的に暮らしています。さらに人間界の動きに関する一定の情報収集を行っているようで、現実世界における自分たちの立ち位置を、かなり客観的に把握しています。

  
  

そういうリアルな設定のおかげで、彼らの犯す過ちはそのまま私たち現実世界の人間が犯す過ちであり、それへの批判や贖罪もまた然り、ということになるわけですので、アタゴオルとは比べ物にならないくらい出来事が現実的で辛らつな感じです。もちろん味付けはますむら先生流のギャグセンスで食べやすくしてはありますが。

  
  

もともと先生のごく初期の作品は、コスモス同様、人間界ベースでネコが人と関わるパターンが主体だったとおもいます。アタゴオル物語の世界観は、そんなますむら作品に新たな、より大きな広がりとファンタジー性を与えた点で、大成功の路線変更アイデアだったとおもいます。でもこのコスモス楽園記の描かれた80年代後半の、人心がバブルに向かう時代、先生としては作品により警鐘的な意味合いを持たせたかったのだとすれば、この「先祖がえり」はある意味当然の帰結だったと言えるのでしょう。なので、自分にはこの作品は、アタゴオルの焼き直しではなく、むしろ対極にある重要な作品と考えています。面白いですけど、少し重いのはそのためですね。

  
  

ということは、やはり現世にアタゴオルは存在できないよ、ということなのでしょうかね・・・

2010年6月 5日 (土)

ますむらひろし「ペンギン草紙」&「オーロラ放送局」はペンギン版楽園記

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ますむら先生の「アタゴオル」以外の作品には、「ネコ」以外のキャラクターが活躍するものもあります。これもその一つで、ペンギンなんだと。やっている事は、もちろん「アタゴオル」と一緒です。あ、もちろん、そこが良いとこなんですよ。

  
  

このペンギンのシリーズ、1990偕成社刊の「ペンギン草子」と、1993学研刊の「オーロラ放送局(上下)」の2シーズンに別れています。いつ買ったか記憶はさだかではありませんが、先にオーロラを手に入れたような気も・・・設定のルーツは「カリン島見聞録」という絵物語で、(自分は2003ポプラ社の上巻のみ持っていますが、実はきちんと読んでいません)確かに一部設定とキャラクターを引き継いでいるようです。

 

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設定とストーリー展開は、アタゴオルというよりは「コスモス楽園記」に近いようです。つまり、最初から人と動物が共生しているのではなく、進化?して文明を持った動物の町に、人間が迷い込んで暮らし始めるパターン。なので、現代の人間世界が同時空に存在している事になります。アタゴオルのようなパラレルワールド的設定とは、ここが大きく異なりますね。

  
  

ですから、次々起きる事件も、そのルーツは実社会の人間の行いが原因のものがほとんどで、そういう意味ではアタゴオルよりもダイレクトな文明批判や人間への警告的な話が多いようです。例えばジョン・レノンやアントニオ・ガウディの魂が引き起こす事件や、スペインの血塗られた南米征服の歴史にまつわる事件など、ますむら先生のこの時期の作品の特徴とも言える、直球勝負の辛口な表現が目立ちます。特に後期にあたる「オーロラ放送局」に顕著ですね。

 

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そういう趣向なので、アタゴオルほど気楽に笑って良し、という感じではありませんが、かといって必要以上に重いわけではありません。主人公の小港美優さんの魅力も手伝って(ますむら先生の女性キャラの中でも、とびきりの美人です!)、全体にはなかなか楽しい作品にまとまっています。

 
   
  

個人的には、初期の「ペンギン草紙」のほうが好きですね。話が暖かい感じがしますし、「カリン島」ものとしての独自性も、他でもやっているスペインネタの多い「オーロラ」よりもはっきりしています。「HAPPINESS・IS・A・WARM・GUN(幸せは暖かい銃)」だそうですが、科学や文明が本当に向かうべき方向を、ちょっと考えさせてくれる、味と深みのある作品だとおもいます。

2010年3月14日 (日)

「ジャングル・ブギ」 アタゴオル物語の本質は武闘系?

100313ata3「アタゴオル物語」と言えばなんとものんびりとした癒し系のお気楽イメージが強いのですが、実は意外に命がけで戦う話が結構あるんですね。外伝系もまた然り。特にこの「ジャングルブギ」、全編戦闘シーンの、かなりハードな長編です。ますむら作品のもう一つの真実がここに?

  
  
  
  
  

「アタゴオル物語」なら「植物見張り塔」、「冬のサーカス団」、「アタゴオル玉手箱」なら「タルダリ大帝」と、なんと言っても大作「キリエラ戦記」、「アタゴオルは猫の森」なら、「テルウテ」、「波動王海談記」かな。短編も入れれば、結構この主人公たち、何度も何度も真剣に戦ってます。「平和の楽園アタゴオル」のはずなのに、とおもうのですがね。適当で自分勝手なヒデヨシはもちろんの事、およそ喧嘩には縁のなさそうなテンプラ君すらも、いざとなれば「世界を守るために(!)」強大な敵に立ち向かうんですね。むしろ、あんたの出番やろ、と言いたくなるギルバルスなんかよりもよほど活躍したりして。

  
  

ますむら先生の初期からの作品を見直すと、実は結構戦いをテーマにしたものが多い事に気がつきます。、古くは「ヨネザアド物語」、今回紹介の「ジャングル・ブギ」、映画のベースとなった「ギルドマ」もそうですし、「アンダルシア姫」もまさにそこがテーマです。また、戦闘がメインテーマでなくても、初期から一貫してダークサイドを描いた作品が多いのもますむら先生の作品の重要な特徴のようです。

  
  

その理由は分かりませんが、一つおもうのはますむら作品の根底に流れる「自然賛歌」であり「地球賛歌」です。守るべきは素晴らしきこの世界であり、戦いの対象になるのは、その大いなる自然を犯そうとする利己的かつ邪悪な意思に対してである、というのがますむら作品の基本的なパターンでありセオリーなのかなとおもいます。なので、自然賛歌の視点で描かれた作品はあくまでも平和で楽しい話題に終始し、逆に自然や地球に悪意を行う者が裁かれる話は徹底的にダークでホラーな話となるようです。作品群全体のこの「二面性」を理解すれば、アタゴオルのような基本は「自然賛歌」の作品に時々邪悪な存在が現われても、まあそれはそれでありかな、と、何となく納得できるかな。

  
  

「ジャングル・ブギ」は1982年の作品という事で、「アタゴオル物語」より後、「銀河鉄道」「玉手箱」より前ですから、絵柄的には「アタゴオル物語」後期の流れの、シンプルで強めの筆運びを感じます。テーマはまさに「守る者」と「悪意を行う者」の戦いそのもの。ストーリーがかなり直球勝負の活劇ですので、この絵柄とは良くマッチして迫力があります。ここにはヒデヨシもテンプラも出てきませんが、ギルバルスと「紅ドクロ王」一族が(ついでに言えば等身大の喋る猫たちが)、ここはアタゴオルと同一の空間世界なんだという事を教えてくれます。ファン的妄想ごっこをするなら、テンプラヒデヨシの時代とのつながりとか、ツキミ姫の一族との関わりとかつじつま合わせで楽しめそうですが、多分そこまでますむら先生は綿密な設定をされてないとおもいますので(と言うと身も蓋もありませんが・・・)ほどほどに・・・

  

最近の作品解説では大分丸くなられたような事を書かれているますむら先生ですが、やはり真骨頂は不条理な物事への怒りをダイレクトに作品にぶつける熱さなのだとおもいます。平和な理想郷「アタゴオル」。それを守る戦いを合わせて描くことで、改めて平和を謳歌する作品の裏側にある意味を考えてほしいという、そんな強いメッセージを送られている気がします。

2010年3月13日 (土)

「アタゴオル玉手箱 1.星町編」 長~いお付き合いへの再出発の一冊

100313ata1この本が出版されたのが1986年、思えば奥さんと知り合う直前くらいに入手したのではないかな。たぶん実家方面の本屋でね・・・定かではないのですが。結果、今にいたるアタゴオルとの長いお付き合いの、きっかけになった一冊と言えるんですね。

  
  
  

当時すでに「アタゴオル物語」朝日ソノラマ新書版1~6巻は持っていて、すでにお気に入りではありました。しかし基本的にますむら先生の作品はまだそうメジャーではありませんでしたので、そこらの本屋ではほとんど見ることもなく、新作はもうないのかなと半ばあきらめていました。今と違って、よほど真剣に探さない限りは、そうそう情報が簡単にころがっているわけではありませんでしたので。

  

その後、ネコ版「銀河鉄道の夜」が劇場公開されて、ますむら先生ご健在を確認したのですが、企画時の事情を知らない当方としては賢治とネコに何の関係があるのか全く理解できず、正直全然興味は持てずそのままになっていました・・・

  
  

そんなときに突然発見したのがこの「アタゴオル玉手箱」第一巻でした。ちょっとたむらしげる入ってる?と一瞬おもったような美しいカバーアートもさることながら、実に久しぶりに再会した「アタゴオル」の文字に一発でやられて、さっそく買って帰ったのでした(とおもいます・・・詳細は例によって霧の中・・・)

  
  

で、でね、あの絵柄ですよ!初期の「玉手箱」は、デフォルメか子供モードか!というくらい、登場キャラのデザインがファンシー化していて、どう見ても中学生くらいの感じです!いろいろ理由があったらしいですが、当時は予備知識なくいきなりでしたからね。本当に面食らいました。しかもどう見ても「子供」にしか見えない連中が(もっとも、「物語」の時でも日本の法律ベースでいったら「成人ギリギリ」のイメージでしたが)、以前と変わらず酒場に入りびたって酒は飲むはタバコは吸うは!なもんですから、まるで無法地帯のますますめちゃくちゃな設定になってまして、収集がつきません!

  

まあ、別世界の出来事ですから目くじら立てることもないのですがね。それはともかくこのシリーズ、ツキミ姫の登場で展開に幅が広がり、同時期の「コスモス楽園記」や「夢降るラビット・タウン」などとの相乗効果もあったのか画力の点でも特に中盤以降は相当なレベルに達していて、まさに中期のますむら先生大発展期の中核となる素晴らしい作品となってゆきます。

  

個人的には「玉手箱」のどの作品も好きですが、この第一巻後編の「星町編」は当時かなりのインパクトをうけました。楽しさ、不思議さ、大ゴマに頼らない緻密な構成、どこをとっても傑作ですね。ときに、なぜかカバーに「何々編」とあるのはこの第一巻だけです。「玉手箱」の中では長編仕立ての「キリエラ戦記(6、7巻)」でも、表紙には記載はありません。なにか不思議な期待をさせるものがあるタイトルだとおもいます。

  
  

この「星町編」の印象が良かったのが、結果的に「子供キャラ」時代を乗り越えて(?)今日まで延々と読み続けるきっかけとなったわけです。アタゴオルシリーズは、今では唯一読み続けているコミックであり、大げさではなく人生とともにある存在になっているわけですが、この本に出会わなければ、ひょっとしたらアタゴオルを読み続けてはいなかったのかもしれません。本当に絶妙のタイミングで、自分の前に現われてくれたと言えますかね。不思議なもんですね、縁、というものはね。

  

2010年3月12日 (金)

「ヨネザアド物語」 アタゴオルのルーツは素敵に不条理

100312yone2「アタゴオル」シリーズも、「猫の森」の最新刊でもう30数年続いているんですね。自分の出会いは月刊マンガ少年連載の「アタゴオル物語」でしたが、そのルーツはもう少し古いんですね。で、これがまた良いんです。

  
  
  
  
  

ファンの方には説明の必要もないでしょうが、朝日ソノラマの「ますむら・ひろし作品集[七] 「ヨネザアド物語」に、ほぼ「アタゴオル物語」と、あの「ヒデヨシ」のルーツとなる作品がまとめられていますね。ヒデヨシ名の猫が初登場となるのは、知っている限りではこの作品集収録の、1973年ガロ掲載の「再会」という短編ですね。すでに等身大で結構なデブ、かつ人間の言葉をしゃべり、ビートルズが好きでマントを着ている、と、今に続くあの強烈キャラクターの基本形は、ほとんど確立されています。1973年といえば、ますむら先生が「霧にむせぶ夜」で手塚賞準入選なさった事実上デビューの年ですので、本当にスタートからともに歩んできたと言えるようですね。

  
  

そして、「アタゴオル」の基本設定がほぼ確立したのがこの「ヨネザアド物語」(1975年)と言えるでしょう。連載された「ガロ」の性格上、大人向けの設定というか、特にテンプラ君がひげ面でややハードボイルドな性格なのが面白い。その他ギルバルスやパンツの原型キャラも登場し(あ、オクワさんも)、アタゴオルという地名自体も、ヨネザアド大陸(もしくは地方)の一つの国家(もしくは州)として初登場します。(ヨネザアド国という国も存在)

  
  

ストーリー進行はいかにもガロで、なんとも不条理というかシュールな展開をするわけで、ある意味行き当たりばったりな感じです。名前つきで紹介された兵士たちが次の回には登場せずそれっきりだったり、ヒデヨシもテンプラも怪我したあとしばらく出番がなかったり、挙句はものすごく唐突に戦争が終わって物語りも尻切れトンボでおしまいと言う具合。絵柄も前半と後半では少しばかりタッチが変わっていて、まとまりという点ではどうなんでしょう、という感じです。


   

でもね、個人的にはとても好きで、読めば読むほど味が出てくる。最近の作品のような要領良さはありませんが、若さからくる熱気というか、次々にあふれ出るアイデアをとにかく力づくで辺りかまわずたたきつけるような、八方破れの無茶な感覚がとにかく素敵です。また、ますむら先生の初期作品に共通のあの何とも言えないダークなイメージも遺憾なく発揮されていて、この点も嬉しいところです。絵柄的にもこの作品のような初期の濃密な表現法はもっともお気に入りですね。


    

100312yone1 猫と人間がまったく分けへだてなく、同等の存在として暮らす世界。現実世界の人種の壁よりもよほどフラットなありえない世界観なのに、さして不思議にも思わず受け入れて、30年以上も親しまれてきたのはなぜなんでしょう?恐らくそれは「アタゴオル」世界全体が、コロボックルというか妖精の世界というかスーパーナチュラルなイメージを強く持っているために、人間よりも猫の目線に近い設定も手伝って、その中では不思議な事が起きても当然と自然に思い込んでしまうのでしょう。そしてそれは「アタゴオル」のページを開いている時だけに起こるこの上なく心地よい「勘違い」であり、「不条理」なのでしょうね。

  
  
  
  

ところでどなたか「ストラバヂッギイ砲」の意味か語源をご存知でしたら教えていただけませんか?いくらネット検索しても不明なんです。昔から気になって・・・

2009年7月 5日 (日)

映画「アタゴオルは猫の森」と「ギルドマ」

090705atagoal1本棚を整理していたらパンフレットがでてきました。そういえば奥さんといっしょに見に行ったよな。で、自分的には、やはりひいき目に見ても「はずれ」かなぁ・・・

  
  
  
 
  
 

映画「アタゴオルは猫の森」は2006年、たしか10月ごろの封切りだったとおもいます。正直なところ、古くからのアタゴオルファンとしては非常に半信半疑な感じで上映を待っておりました。まず「3Dアニメーション」だとさ。あのまったりとしたますむらさんのキャラや世界観にどうもイメージがあってこない。「石井竜也」?そりゃ才能あるけどこれも相性どうでしょうか?「ギルドマ」がべース?あの話はちょっとアタゴオル王道路線からはかなり外れてない?などなど、けっこうな数の「?」が頭の中をうずまいていたような・・・

 


で、見に行ったんですけど、まあ、あまりひとの作ったものを悪く言いたくないのであくまでも「個人的感想」とするなら、「?」が現実のものとなってしまった、というところでした。 

 
 

ストーリーが、とか音楽が、とか、吹き替えが、とか絵柄がとか、それ自体はそれなりに悪くはなく、たとえばお子さん向けと考えれば、「ヒデヨシ」の少々教育的観点からは問題な発言集をのぞけば、けっこう楽しくまとまっているとおもいます。

 

 

ただ、なにせこちらにも長年のつきあいの中で出来上がっているイメージがありますから、それとのギャップはとても大きく、まったくと言っていいほどなじめなかったのが本音ですね。要するに、「お子様向け」以外のターゲット像がうかんでこない。誰にむけた、誰のための「アタゴオル」なのかがわからない、もしくはわかりにくい作品だと思いました。

 

  

090705atagoal5_2 もともと原作の「ギルドマ」(朝日ソノラマ刊)自体が、「アタゴオル」の中では少し異色で、個人的にはちょっとね、というところもあるものですから、すなおに感情移入できないのですが、その分をさしひいても、どうも「みんなでおなじ方をむいておなじ踊りを踊る」ことに象徴されるように、全体に本来の「アタゴオル」らしさが欠けていると思います。やっぱり、こどものくせに酒飲んでタバコを吸って、好きなようにゆるく楽しくくらすのが、ファンにとってのアタゴオルではないかと。




とはいえ、たしかに「アタゴオル」には「ダークサイド」があって、とくに初期の「物語」編には魔女だの魔法使いだのが登場していましたので、そういう意味では 「ピレアばばあ」もありとはおもいます。が、「ギルドマ」はアタゴオルの自然をピレアのセンスで作りかえるのが話のキモなので、どうも世界観自体がオリジナルのアタゴオルのビジュアルイメージとずれてしまうのが気になります。

 

 

反対に、とくにファンではないうちの奥さんのような人にとっては、アタゴオルの基本設定について説明不足で、これまたわかりづらいようなんですね。ヒデコが面白かった以外はあまりよくわからなかったと言っておりました。 




「アタゴオル物語」はたしかに30年以上つづくロングセラーではありますが、一般的にはまだまだマイナーで、知る人ぞ知るという感じです(この記事じたい、「アタゴオル」も「ギルドマ」も読んでいない人には十分には理解できないでしょう)。ですから映画のようなメジャーなメディアでそれなりの興行成績を見込むためには、原作のカラにとじこもって、仲良しクラブでまとめるわけにはいかなかったのでしょう。ますむらさんもそれを承知で、「ギルドマ」をベースにすることを提案されたのだとおもいます。

 

ただね、それでも、もっとのどかでおだやかで、そして適度にダークな、「わが心のアタゴオル」をいつか見せてもらえたら、と、いまあらためてパンフレットを読み返しながら、おもうのであります。 

2009年6月27日 (土)

6月27日(土)晴れ  「アタゴオルは猫の森」14巻

090627atagoal1 日記的メモです。訪問の方はとばしてください。

  
  
  

久々の14巻。いつもの本屋に1冊だけあったところを購入。ここがやめたら、いよいよアマゾンのお世話になるか・・・

 
 
 
 
 
 
 

いつものごとく、安心して楽しめるが、今回はいきなりの「水晶散歩」系2連作。今の時代には少々無理があるかな?楽しいけれどね。

   

最近少し、デッサンと背景の淡白さが気になってます・・・とはいえ、これからもつきあうんでしょうな。

  

今日はまったりとした1日だった。ブルプロを「染めQ」のブラックで塗ってみたが、はたしてどうなるか?いずれレポートするかな・・・

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