“50代の落書き”「フィフティズ・グラフィティ」のコンセプト

カテゴリー「アニメ・コミック」の22件の記事

2012年5月12日 (土)

「風の谷のナウシカ」 新マスターバージョンの感想と後出しジャンケン考

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仕事の後片付けをしてからTVをつけたらもう中盤。「金曜ロードショー」で登場の「新マスター版・風の谷のナウシカ」。結局後半しか観られませんでしたが、劇場公開当時の色彩イメージというふれこみでしたので興味があったわけで。で、どうなんですかねこれ?

 
 

先日発作的にAmazonポチットナでDVD版を手に入れて何度か観たわけですが、確かに特に空の青、腐海の湖の碧などについては持っていたイメージほどは正直強烈な印象がなかったのも事実。もちろん十分に美しい色合いだったのですが、思っていたよりも穏やかというか、彩度感が不足していたようにも感じていました。ところが今回のTV放映での目玉、「新マスター版による公開当時の色彩の再現」というのについては、どのくらい劇場公開当時のままというのはもちろん今となっては自分にはわからないのですが、逆にチョット色がきつすぎない?生すぎない?と思ってしまいました。

 
 

全体に彩度がものすごく高い。特に背景よりも人物やその服装やメカなどの動画部分の色彩計画に顕著です。コントラストもやたら強くて、例えば酸の海のシーンでのナウシカの青い服など、背景と同化してしまうぐらい濃い色で表現されており、画面が暗くなりすぎてむしろ見辛いように感じました。その他のシーンでもどうも画面に一体感がない。部分的な色が生々しすぎて浮いてしまっているように感じました。

   
 

今後は再放映やBD等の再リリース時には今回のバージョンに置き換わってゆくのだとするとちょっと疑問です。もう少し画面全体のバランスを考えた、詩情あふれる色彩計画への再考をお願いしたいと思いました。

 
 
 
 

さて、改めて映画版を観て感じたことは、やはりこれはこれで日本アニメの一つの金字塔、といえる作品であると再確認した事ですね。まあクライマックスでの王蟲「大海嘯」シーンのスケール感や重量感のなさとか、群衆シーンでの人物個々の動きのなさとか、当時技術の限界は感じるものの、そういうことを超えた強いテーマ性と素直でシンプルな感動があります。それは以前にも書きましたが、「ありのままの自然を受け入れ、ありのままの自然と共に生きる」という、人間の欲望や思い上がり、更には反戦・反核・反原発などの「いやだいやだ」と口で言うのは簡単だよを超えた、成し得るのは本当に難しいが本当はそこまで到達すべき姿の提示。そしてそれを体現するヒロインを私たちの前に提示しえたことが、この作品の価値なのでしょう。

 
 

「原作版」というか「マンガ版」に比べて掘り下げが甘いとか、両者を比較して批判する意見も散見致します。それはそうかもしれませんが、「原作版」は劇場版以降約10年も作者もあれこれ紆余曲折しながら書き続けて何とかまとめた、言い方を変えれば壮大な「後出しジャンケン」。10年もかかって初期の内容を超えられなかったらそれこそちょっと待ってですよ。まあ以前にも書いたようにあれこれと話は膨らみますが結局ナウシカの考え方(ありのままの自然を受け入れて自然と共に生きる)はぶれなかったので、考えようによっては10年間おんなじことを描いていたとも言えるよ、と言ったらあまりにも宮崎先生に失礼ですかね。もちろん、原作版も本当に素晴らしく、こちらも「金字塔」と言えるだけのものと思っていますよ。ただ、映画という非常に短い時間の中で、伝えるべきその価値ある思想をシンプルに分かりやすく伝えられたという意味では、劇場版は十分に成功していると思うわけです。

 
 
 

要するに言いたいのはね、劇場版と原作漫画版のどちらが優れているか、というのは不毛の論争で、比べること自体がおかしいし、映画版は映画版として素直に評価すべき、と思うよ、と。今回のTV放映を見ながら、改めてそんなことを想った次第です。エターナルな価値をもった作品、と思いますね。

2012年3月30日 (金)

「風の谷のナウシカ」 永遠の名作アニメと原作版の、貫かれたメッセージとは

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日本の劇場版アニメの金字塔にして、宮崎駿原作版マンガとの比較に常にさらされる運命にあるこの作品。宗教的、思想的、さらには哲学的な領域で語られる稀有なアニメでありますが、原作の完結が公開の10年後までかかったため、どうも評価がややこしくなりがちで・・・

 
 

残念ながら劇場公開時に映画館へは行っていません。当時周りでも凄い話題でしたけれどね。その後TV放送で観て確かにこりゃ凄いなとおもい、漫画版を買ったり何度も何度も録画しながら、結局ようやくここにきて衝動的にAmazonでDVDをポチッとな。今回しっかり観直して、アニメ映画としてエターナルなクォリティを持っている作品だと心からおもいましたね。

 
 

以前、漫画版については記事を書きました。その凄まじいダークな世界観と救いのないエンディングに感銘と困惑を感じつつ、漫画版の紙質や印刷色まで徹底した荒涼とした世界観表現の重苦しさと、アニメ版の美しい色彩感覚との対比についての私見など。今回DVDを観て、CG以前にも関わらず、ここまで美しい色彩表現を当時技術でアニメ映画がなしえた事に改めて感銘を受けましたね。特にオープニングから10数分の何物にも変え難いような美しさは圧倒的です。青空、腐海の細密な描写、砂漠ですら美しい見事な自然世界の描写と色彩計画。この美しいアニメを作り上げた原動力は、「自然」が支配する世界の美しさを徹底的に表現したいという非常に強い欲求と、それが支えた様々な技術革新によるものなのでしょう。結果、原作の世界観を踏まえたうえで、表現としての美しさを奇跡的といってよいほどに高めることが出来た作品であり、だからこその「名作」の評価がある、と感じております。

 

そして内容的にも、巨神兵の復活など過度の文明依存への警鐘的エピソード、ラストで描かれる自己犠牲の精神、自然を敬い人を愛する素直な気持ちとそれがもたらす奇跡等、非常に分かりやすく描かれしかも重厚な人間ドラマを感じるところです。ですのでこのアニ メ作品のみを単独評価するなら、「自然礼賛」と「文明依存への警鐘」、「人間の尊厳のドラマ」でOK、となりまして、ああよかったね、でENDでも、何の 問題もないと思うのですがね。本当に美しい、宝石のようなアニメ映画だと思いますから。 

 

とはいえ、「風の谷のナウシカ」という作品全般についての評価は、アニメではなく原作漫画版の、特にラスト部分でナウシカがとる行動についての解釈に集約されることが多いようです。劇場版は1984年作品、原作漫画版は1982年から1994年まで断続的に発表されました。したがって劇場版が発表された時点と漫画版の連載終了時は時間的に大きく食い違います。映画版の部分はコミックス版全7巻のおよそ第2巻の途中までであり、執筆時期と映画化の進捗もある程度シンクロするので、ここまででしたら映画と漫画にそれほどのかい離は感じません。しかしその後断続的に連載は続き、完結は結局映画公開の10年後となってしまいました。 その間に確かに物語は大きく動きましたし、宮崎監督の物の見方や思想なども確かに移り変わったようです。

 

 

これを前提に、映画版と漫画版はまるで違うものだとか、ナウシカの考え方や行動が一貫していないとか、漫画版の難解なエンディングは宮崎監督の思想的なブレによるもので、未来の種を摘みとり、希望を持てないような終わり方は納得できないなど、いろいろ批判的な意見もあるようです。宗教や哲学までがまな板に載った、大変ヘビーでディープな評論もお見かけします。そういう見方もあると思いますし、それは分からない事は無いのですが、作者の思想的背景をあぶり出し分析することが、イコール作品の評価、という事ではないはず。それはむしろ「作者についての研究」であって、「作品の評価」そのものではない。「観る側が何を得たか感じたか」という事に重きをおいてこそ、素直な「作品の評価」となるのでは?と思うわけです。

 
 

そこで「知識としての」宮崎監督の当時の思想的背景やインタビュー記事などの「情報」をいったん頭から排除して、おそらくそれぞれ言いたかったことが集約されているであろうエンディング部分を映画版と漫画版で比較しながら考えますと、自分には意外な事に、「言おうとしていることは同じである」というように感じてきました。それは「人は自分(たち)の力で、自然と共生して生きてゆくべし」というシンプルなメッセージ!

 

 

映画版の、巨神兵に頼って腐海を焼こうとしたクシャナやペジテの人々も、漫画版の、自力での解決を諦めて再生の技を閉じ込めた墓所の博士たちも、科学文明への盲信に取りつかれ、自分(人間)に都合の良い未来を描き、自然と共生し自らの力で生き抜くことを忘れてしまったと言えます。それに対してナウシカの取った行動は表面的には自己犠牲(映画版)と破壊(漫画版)というように真反対ではありますが、「自己犠牲」はあくまでおごれる人間に起因した自然の怒りを鎮める目的のものであり、「破壊」も同様にあくまで自然に対しておごれる人間のエゴに向かっての行動です。そして、「自分」若しくは「自分たち(人類)」が生き抜くためには「自分自身で」「目の前の」「自然と同化し、共生して生きるしかない」、という根本的な動機は同一と思います。そして「彼女にとっての自然」とは、目の前にある「世界のありのままの姿」の事であり、映画版で提示され漫画版で追及されていった、「だれが創ったとか何の為にとか清浄だ汚濁だとかの命題」は、悩みながらも乗り越えた結果的に小さな問題でしかなかったわけです。「自然との同化・共生」それが彼女のたどり着いた結論でもあり、それでこその墓所での発言や行動なのだと思います(巨神兵オーマの「裁定」もそれを支持したものなのでしょう。だからこそ墓所でナウシカを支持した行動を採ったのだと思います)。なので、「現代日本(若しくは世界)の現実世界での価値基準」(つまりは人間主体の考え方)でその考え方や行動を評価すると、未来の種を摘みとるとか希望が持てないとかの意見が出てもおかしくない訳です。

 
 
 

このようにナウシカが思い描く未来(若しくは彼女なりのユートピアといっても良いと思います)はゆがんだ科学文明による自然の征服ではなく、今目の前にあるありのままの自然と共に生きることがもたらすものなのでしょう。そして様々な疑問や葛藤を乗り越えて、それに向かって真っすぐに進むことが、この主人公に課せられた「生き方」なのでしょう。それは即実践できるようなものではありませんが、それに共感できる部分が私たちにあるからこそ、この映画版が数ある日本のアニメーションの中で今でも孤高の位置を保っている所以なのでしょうし、自分的評価としてもまた然りです。またこの「生き方」こそ、原作版について言われる、「作者の思想的変遷」がもたらした「表面的な思想表現の変化と混乱」にも妨げられることなく貫き通された骨格テーマであり、それについては最後までぶれなかったと自分はおもいます(複雑な表現や展開のせいで分かりにくくなっているとは思いますが・・・)。作者もいろいろ悩んだのでしょうが、最後は「自分の分身であるナウシカの声」を聴いた形での結末としたのでしょう。そう考えれば「難度C」の漫画版もより親しみが湧いてくるというものです(?)

 
 
 

 

ただやっぱりね、アニメ版も原作ほどではないですが、重いんですよね。軽快なテンポと色彩の美しさで大分救われてますが、それでもやっぱりラピュタのようには気軽にお付き合いは出来ません。なにせ「生き方」がテーマなんですから。でもそれはそれで良いのでしょう。それでも何度も観てしまうだけのパワーがありますからね。繰り返しますが本当に美しい、宝石のようなアニメです。

2012年3月15日 (木)

ミステリー 石森章太郎「幽霊船」連載時期の謎

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大分以前に拙ブログで取り上げた石ノ森章太郎先生の「幽霊船」。最近になって記事をお読みいただいた方から、記事中の発表時期の記載について疑問のコメントを頂きました。今回調べてみると、当初思ったより深い問題が発覚!さて本当の発表時期はいつなのでしょうか?

 
 

お問い合わせは、手持ちの昭和44年版「石森章太郎選集」について書いた拙ブログの記事には「昭和35年、少年に連載」とありますが、その方のお持ちの版(昭和41年発行のコダマプレスの、DIAMOND COMICS版)には昭和32年~33年の連載となっており、どちらが正しいのかという趣旨でした。お問い合わせのコメントを頂いた時点では問題の本が手元になく、何をもとに35年と書いたか思い出せませんでしたので、推測で手持ちの選集の末尾作品解説か初出記事をもとにしたのではないかとした上で、軽くググった結果としてWikiやアマゾン等の複数記事をもとに、35年が正しい(正確には35年から36年にかけて連載)ようだ、とお答えさせて頂きました。

 
 

ただ何となく気になっていて、ちょうど今回手持ちの選集を確認することが出来ましたので、あらためて記載部分を探してみました。すると!なんと!「解説文」の冒頭に「昭和32年から33年にかけて」と書かれているではありませんか!!!しかも読み進むと、32年では石ノ森氏がまだ10代の時の作品であり、10代ならではの若さゆえの良さ悪さが同居している作品である、という感じで、つまり32年発表を前提の評論が全編になされていることが確認できました。しかもこの解説文は「草森紳一さん」が書かれたものですが、調べるとこの方は幅広い分野で活躍された大物評論家で、特にマンガ評論では草分け的存在であった、とあります。この方が「32年」と書いているのですから、すわ間違えたか!とあわてたわけです!しかもこの「選集」には、その他の部分に初出の情報は一切ありませんでした。なので当時自分が35年とブログに書いたのは、Wikiあたりで調べてそのまま(改めて解説文などは見ずに)載せたのだろうと思います。

 
 

で、とりあえず確認方法として2つトライしました。一つ目は作品の中に発表時期が特定できるような情報が無いか再読してみました。つまりセリフや絵の中に、昭和32年よりも以降に流行った流行語や事象、建物などが描かれていれば35年が正しい、とほぼ言えるだろうと考えたわけです。一コマ一コマ注意して見ましたが、残念ながら確証が持てるような記載は見つけられませんでした。劇中登場する自動車や戦闘機にも注目したのですが、ディフォルメされ過ぎていて判別不可。唯一、終盤のシーンで2,3コマに、東京タワーらしきものが小さく描かれていたのですが、これもはっきり東京タワー!と言い切れるだけの絵ではありませんでした。東京タワーなら昭和33年秋の竣工ですから、35年ならはっきり書かれていても、33年夏前まででは建設中のはずでそういう絵になる、と思ったわけです。また、セリフなどに時事ネタは一切ない感じで、内容からの時代特定は無理でした。

 
 

2つめの方法は「公式見解」の記事を探すことです。前回は「Wiki」と「Amazon」の記事をもとに書きましたが、どちらも何かの受け売り、という可能性があります。元ネタがあるとすれば、「石ノ森章太郎公認のサイトの情報」か、「少年の連載当時の本そのものの画像」、若しくは「少年のオフィシャルな記事掲載時期の情報」あたりを確認する必要があるとおもいました。で、この線でググってみたわけです。

 
 

すると、まず「石ノ森章太郎ファンクラブ」という石森プロ公認らしいファンクラブのサイトに、石ノ森先生の作品データベースのページがあり、それによるとやはり「昭和35年(1960年)」の項に「幽霊船」とあります!35年7月号から36年8月号、という事です。一方32年、33年の項には出ていません。「少年」への作品掲載もありません!

 
 

当時の連載そのものの画像については、ひとつは「おいちゃん 書庫の中」という「おいちゃん」という方のブログの2008年3月2日付の記事に、「少年35年9月号付録・幽霊船」の表紙画像ですという記事が載ってまして、画像から「9月号ふろく」の文字が読めます。ただし、「昭和35年」の規定できる文字は画像にはありません。その他にも幽霊船の載った別の号の表紙画像が出ていますが、残念ながら時期を特定できる記載がありません。ただ、今回は調べてませんが、同時掲載の他のマンガのタイトルが載っていましたので、それがヒントになるかもしれません。

 

また、32年7月の「少女ブックふろく」がヤフーオークションに出品されていたのを見つけました。掲載作品は「ぼくチン一家」。これは先のファンクラブのデータベースの記載と合致します。絵柄的に(少女マンガ誌向けとはいえ)幽霊船のそれとかなりかけ離れているのと、32年説と全く同時期の掲載であることが注目点です。

 

逆に「コダマプレス版」の幽霊船には石森先生ご自身の添え書きがあり、確かに「昭和32~33”少年”連載」と書かれています!こちらの載っているブログが、お問い合わせを頂いた方ご本人のブログと思われます(確認は取っておりません)。先生ご自身の文と考えるのが普通でしょうから、もし35年からの連載とすれば、これが書かれた1966年(昭和41年)時点ですでにご記憶違いをされていたという事になります。

 
 

前述の草森紳一氏の記載とこの石森先生の記載が合致しており、これを見る限りでは結構強力なライン(なにせご本人と著名評論家組)となりまして、やはり32年からが正解なのかとも思ってしまいます。しかしこれも前述の通り、「32年当時の石森先生の作品の画風」と「(35年)9月号の少年の付録に掲載されている幽霊船そのものの画像」が見つかりましたので、そう簡単に32年とも言えません。

 
 

解釈の一つとしては、もし35年説をとるならば、石森先生の「記憶違い」(昭和41年の事)の添え書き記載を草森氏が参考にして、昭和44年の「石森章太郎選集」の解説をお書きになったという事が考えられます。論拠としては、草森氏の文章の導入部の石森先生からの「引用」の部分「・・底に流れるムードは」などの文章が「コダマプレス」添え書きそのままである点と、作品の書かれた時期のあたりの記載には「・・・だという」「あったわけだ」など、断定ではなくやや憶測が混じったような調子があるからで、要はご本人への直接取材や客観的な資料をしっかり調べたうえでの、という感じがしない、どころか「添え書き」のみを資料に書いたのではないかと思えるところです。こんな大物がなぜ?とは思いますがね。ついでに言えば草森氏の「10代の作品」という表現も推測で、石森先生の添え書きには若いころ的な記載はありますが10代の作品とは全く書かれていません。つまり、石森先生の記憶違いであるならば、草森氏のもセットで間違い、となってしまいそうです。

 
 

さて長くなりましたが結論です。自分で調べた範囲では、やはり35年説が有力かなと思いますが、32年説を真っ向否定できるところまでの確証も得られていない気がします。やはり35年7月から36年8月の「少年」にしっかりと「幽霊船」の掲載が確認できる画像が出てこないと、完全にすっきりはしませんね。若しくはオフィシャルな情報があるならそれを信じてよし、というところで、それならば今のところ「ファンクラブ」の情報がそれにあたるという事で35年説が正解、という事になりますが、その情報の根拠までが必要かどうかですね。 で、自分的にはこの問題は「35年説をとるが、32年説も気になるねぇ」としていったん幕を引きたいと思います。駄文長文失礼いたしました。

 
 

やっぱりミステリアスな本ですね、これ・・・

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追記 2012/03/17

石森プロ公式サイトの「マンガ作品紹介・年代順一覧」の記載では、詳しい時期は書かれていないものの「1960年代」の項に幽霊船は分類されています。という事は1960年~61年(昭和35年~36年)を公式見解としていることになります。その他一般の方のサイトにある「少年・昭和36年1月号表紙」の画像で、非常に見づらいのですが「27大付録」のタイトル中に「幽霊船」の文字がありました。それを抜粋した一般の方の記事も発見しました(この時期、表紙には連載作品タイトルよりも付録情報の方が優先で載っているようです)。「東洲斎写楽」の「浮世絵類考」ではないですが、公式サイトと掲載誌の画像ですので、まず「昭和35年作品」として間違いないと思います。とするとやはり32年は石森先生の記憶違い、という事になります。

2012年2月29日 (水)

「天空の城ラピュタ」 昭和全開の冒険活劇とバルスの示すもの

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公開から25年も経った現在でも、「バルス!」の一声でサーバーが滅んでしまうほどの圧倒的支持を受け続けているこの作品。大好きな大好きな作品ですが、最初に観た時から疑問に感じてたことがあります。なんで「バルス!」の「一声」で・・・・

 

録画で何度も何度も観返した挙句、最近発作的にAmazonでポチッとしてしまいました。まあ、今どきDVDですけどね。でまた何度も何度も観返しているわけです。いい年をしてなんでこんなにと自分でも思うのですがね。今どきのアニメはほとんどと言っていいくらい見なくなりましたし、過去のものを観直すこともほとんどありません。過去のアニメはむしろ稚拙な技術表現が気になったりもして趣をそがれることが多いのですがね。確かにジブリ系はそのあたりの質の高さも今でも観る気にさせるポイントではあるのですが・・・


 

そういう事を超えた、何か本当に強い魅力がこの作品にはあるようです。考えるに一つは今となってはノスタルジックなまでのシンプルでストレートな「冒険活劇」であることですかね。冒頭からクライマックスまで、「息をもつかせぬ」(古い表現で恐縮です)軽快なテンポでぐいぐいとストーリーが進みます。ストーリー自体もシンプルで、変なひねりや難解な心理描写もなく、徹頭徹尾分かりやすく出来ています。その流れの中に観客(である自分)は安心して身をゆだね、この無類の冒険譚を心から楽しむことが出来るわけです。それによるなごみの時間が魅力なんでしょう。宮崎駿監督が「昔のマンガ映画のようなシンプルな冒険活劇を作りたかった」と当時語られたというのをどこかで読んだ気がしましたが、この作品以前のこれ以上の冒険活劇マンガ映画を自分は思い当たりません。逆にこの後作られた「冒険活劇系アニメ」について、自分は多くを語れる立場にありませんが、たまにTVで「○○ピー○劇場版」とか「○○えも○劇場版」とかを拝見してもピンときませんねぇ、「お涙ちょうだい」的な演出や妙に大げさな超常現象的展開が鼻について、どうも入り込めません。

 
 

逆に登場人物たちのあまりに「昭和的」なやり取りに、今観るとちょっと照れてしまうところもありまして。例えばパズーの「天使じゃないかって心配してたんだ」なんてセリフとか、天井から落ちた後、二人で笑いあうシーンとか、昭和の頃の学園ドラマを見ているようで、今どきの「演出」では絶対ないよな、などと勝手に思ってしまいます。パズーの男っぷり、シータの女っぷりもまさに「昭和」!とはいえ今では歯の浮くようなセリフや行動も、むしろこの映画の魅力になっているとおもいますけどね。

 
 

そして絵が綺麗!前作「風の谷のナウシカ」は確実に日本アニメの色彩計画のクォリティを数段引き上げたと思いますが、本作も負けず劣らず美しい画面です。アングルやコマ割りも素晴らしく(それが絵コンテ段階から非常に良く練られていたのは特典ディスクの「絵コンテ版映像」で確認できます)、特に冒頭のタイトルロールの後の、飛行船から落下するシータの飛行石発動シーンの美しさは特筆ものでしょう。絵としての美しさもさることながら、大冒険の導入部として、見事なまでの期待感、わくわく感を観る側に与えてくれるアニメ史に残る名シーンだと思います!

 

で、全編ぐいぐいと引っ張られていくわけですが、初めて(TVでですが)観たときからどうもスッキリしなかった小さな疑問があるんですね。今でもそのシーンになると毎回ちょっと引っかかるのですがね。それがあの問題の(?)「バルス!」のシーンなわけです。要は何でこんな恐ろしくも重要な呪文が、こんなに短い単語一言なのか、と言うわけで。まあ、どうでもいいと言えばそれまでなんですが・・・

 
 

で今回この駄文を書くにあたって少し検索してみると、残念ながらジブリサイドの「公式見解」は見当たりませんが、ファンの皆さんの熱い(?)自論の数々が!やっぱり皆さん引っかかっていたんだなと思いながらいくつか楽しく拝読させて頂きました。なるほどなと思ったのが、実は「バルス」は長い呪文の最後のフレーズで、その前の部分はシータがパズーと抱き合っている間にひとりで唱え、最後に二人一緒に残り(バルス)を唱えた、というものです。これなら、発動の呪文である「リーテ・ラトバリタ・ウルス・アリアロス・バル・ネトリール(我を助けよ、光よ甦れ)」が幼いころとはいえ聡明なシータが一度では覚えられなかった複雑で長いものであったのに対し、実は「滅びの言葉」もそれ並みのものであったという事になり、重要度からして納得できるものに感じられます。また、あまり長いセリフでは進行上テンポが損なわれるためあえて短くしたのではという、制作サイドの立場に立った(?)身もふたもない(失礼!)ご意見もありました。

 
 

ただこれらはあくまでも「話の流れ」という観点からの考察。その通りなのかもしれませんが、宮崎駿監督のこの作品に込めた思いや当時の考え方などを読むにつけ、それらの諸事情プラス、もう少し伝えたかったことがあるのでは、と思うようになりました。それは「はかなさ」。どんなに叡智を集め栄華を極め、富を力を蓄えたものでも、失うときは一瞬である、という諸行無常の気持ちをこの「バルス(閉じよ)」という短いフレーズに込めたのではないかという気がします。複雑な発動の呪文はこれに対して、簡単には開かないラピュタへの扉の象徴、言い換えればゴールにたどり着くまでの長い道のりを表しているようです。信頼も富も平和も安全も、築き上げるまでは長く、失うのは一瞬・・・今となっては3・11や原発問題までそう考えるとダブってしまいます。そして本作世界に限って言えば、「バルス」とはトルコ語の「平和」からとったそうですが、恐怖の帝国ラピュタが滅びることによって訪れる平和を、逆説的に表していたのかもしれません。そしてさらにそれを現実世界に置き換えるなら、宮崎監督は当時から思想的に「No!」を唱えていた原発や核兵器を肯定する世の中を「ラピュタ」に置き換え、「平和の意味を持つ滅びの言葉」という一見矛盾する呪文に自分の願いを込めていたのかもしれません。

  
 

 
 

まあそんな付け焼刃の自論を振りかざすまでもなく、「バルス問題」はさておいてもとにかく何度観ても何度観ても楽しめる名作中の名作ですのでね。見るたびにいくつになっても少しだけ子供の心を取り戻せる稀有な「マンガ映画」として、これからも10本の指に入り続けることでしょう。もちろん自分は大人ですのでね、「バルス祭り」に加わったりする気はありませんよ!え?本当だろうなって?「言葉を慎みたまえ!」・・・チャンチャン(オッと昭和!)

2010年8月23日 (月)

映画版「ブレイブ ストーリー」 通過儀礼的良質RPGファンタジー

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娘に借りたままのDVD、久しぶりのアニメ映画として観てみましたが、対象年齢低め感はあるものの、なかなか良く出来た作品と感じました。少年少女時代に一度は出会う、冒険と成長の物語。いつの時代にもあるんですねぇ。


  
  

映画は2006年で、ワーナーブラザーズ配給でフジテレビ制作。テレビ系の邦画はいまや主流ですが、フジとしては劇場版アニメ進出をかけた作品だったそうで。夏休み直前公開だし、狙いどころは良かったようですね。

  
 

ただまあ、おじさんとしては何をいまさらのイメージが当時ありましたので、公開時は見ておりません。最近娘が3本3000円格安洋画DVDセールになぜかまじっていたのを手に入れて、観てみなさいよと貸してくれたものの、何となくおっくうで、ようやくここに来ておもい腰を上げたというところで。

  
 

宮部みゆき先生の原作も、そんなわけで失礼ながら読んでおりませんですし(娘は読んでいたようですが)、ネット情報も確かめずに、まずは予備知識なしでの視聴となったわけです。で、導入から15分くらい(つまり主人公が別世界へ旅立つあたりまで)は、正直言ってどうしようとおもっていたのですが。

  
 

話が進むにしたがって、けっこう引き込まれてゆきました。クライマックスのあたりではそれなりに深い心の葛藤と勇気ある決断への流れが心地よく、エンディングはちょっとハートウォームな余韻が感じられて、気持ちよく観終わる事が出来ました。おもわず2回観てしまいましたがね。まあ、2度目の感動は、それなりでしたけど・・・

  
  

さて、原作も映画も体験済みの方には釈迦に説法でしょうけど、スト-リーは全体として、いわゆる「RPG」的な構成で描かれています。最初は脆弱な主人公が、イベントをクリアーするごとに経験値と能力を向上させ、仲間を増やし、最後は大ボス的な巨大な力と対決。これを打ち破ってめでたしめでたし、という具合。しかも勇者だドラゴンだ魔導師だという世界観ですので、テレビゲーム誕生の時代からそういうものを横目で見てきているおじさんにとっては、目新しいものはなにもありませんね。

  
  

もう一つ連想したものは、「ネバー・エンディング・ストーリー」で、ファンタージェン、それをつかさどる幼い皇女、光と闇の世界の対立といった基本線から、ドラゴンにのって空を飛ぶみたいなディテールまで、知りませんとは言わせませんよ的な共通イメージを感じました。

  
  

ここで言いたいのは、「どこかで観た、聞いたようなありふれた設定」を非難、ということではなく、むしろ逆です。あえてこういうオーセンティックというかスタンダードな設定をもつことが、この作品にとっては重要な美点、とおもうのですね。

  
 

テレビゲームの「RPG」なんてものが登場する以前から、こういうアナザーワールドを旅して登場人物が成長してゆくタイプの空想冒険小説やテレビドラマ、マンガ映画(あえてアニメといいません!)はあまた存在しておりました。ピーターパンなんかも代表例でしょうし、要はわれわれおじさんの世代よりもっと以前から、こういうお話は少年少女の心の成長にとって、かけがえのないものの一つであったとおもうわけです。

  
  

ひるがえって現代は、安心して子供たちに見せられるそういうタイプの作品がどれほどあるのかと。エヴァでもガンダムでも、確かに主人公は真摯に「自我」と向き合い、苦しみの中から人生を掴んでいるのかもしれませんし、それが現代流の「冒険物語」と言えない事もありません。また、「ドラえもん」や「ポケモン」の劇場版なら、もっとかつての空想冒険小説に近い素直な良さを持っているでしょうね。

  
  

それでもこの作品の特徴、美点とおもうのは、ここには仲間はいても助っ人の「ドラえもん」や「ポケモン」はいない、「自分が」成長し、「自分の」力で難関を切り開いてゆくことに特化したストーリーとしているところだとおもいます。だからこそ、クライマックスでの彼の選択、決断が、力強くすっきりとこちらの心に響いてくるのでしょう。そこがのび太君とワタル君の違いかな。最終的に彼が選んだ「願い」は、自分個人の悲しみ苦しみや葛藤を乗り越え、もっと大きなものを救おうとする、高次元の意思です。50年生きていた自分にも、改めてハッとさせられるような、高次元の意思です。やたらと説明的な長いセリフが、今どきの作品を感じさせてくれますが(昔はもっとシンプルだったような・・・)、今も昔も若者が一度は学んでおくべき大切な考え方に変わりはありません。

  
  

原作は1000ページの大作で、もっと複雑で深いドラマがたくさん描かれているようですし、さすがに映画版は、それを知らずに観てもずいぶんはしょったな感は感じてしまうところですが、とはいえなかなか上手に構成されているとおもいますね。まあ、娘に言わせると、原作版のほうはけっこう救いがない感じのストーリーとエンディングだということですが・・・(おそらく、ミツル君の最後の扱いの違いなどによるものらしい)。また無粋を承知でつっこむとしたら、ダメ少年があまりにスイスイと強くなってゆくあたりがちょっと不自然に感じるかな。成長早すぎ?でも、そんなつまらないツッコミを考えるより、素直にこの世界観を受け入れて楽しんだほうがよいと思える、良質な作品になっているとおもいますね。

   

  

空想冒険小説を経験するのは、大人への、とまでは言いませんが、少年少女時代からステップアップするための「通過儀礼」的な意味をもっているとおもいます。ならば、時代にあった新しい冒険物語を提供してあげるのが、大人側としての責務かもしれません。この「ブレイブ ストーリー」映画版は、その資質を十分に持った、オーセンティックで良質な作品、と言って良いとおもいます。おじさんにはちょっともう照れくさいですがね、そのくらいのピュアな味付けがいいんでしょうね。

2010年7月26日 (月)

杉浦茂「猿飛佐助」「少年西遊記」「ドロンちび丸」 究極のお馬鹿漫画の幸福な世界

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昭和5年(1930年)にデビューされて、平成12年(2000年)92歳で亡くなる直前まで筆を執られていたとのこと。まさに時代を超えた作家であったうえに、アウトローなイメージもありながら、また同時に超重鎮でもあった、稀有な位置付けの大物ですね。凄すぎます!!!

  
 

杉浦茂先生の詳しい経歴は、Wikiなどでご確認ください。例によって、そういうことは詳しくありません。作品との出会いは1987年ごろ。文春文庫の「懐かしのヒーローマンガ大全集」という、昭和20年代~30年代頃のヒーロー物の人気漫画を一話分くらいずつつまみ食い掲載した寄せ集め本を衝動買い的に手に入れたのですが、月光仮面やエイトマン、赤胴鈴之助といった確かに定番の「ヒーロー」にまじって、何ともキテレツなキャラクターが載っていたわけで、それこそがわれらが杉浦先生の、「猿飛佐助」でありました。
  
  
  
ご存知の方はご存知でしょうが、まずあの絵ですよ。絵に「芯」が無いというか、何ともふにゃふにゃしているのですが、そのわりにどんなシチュエーションでもしゃれた絵柄で自在に描きあげる力量もあって、へたなのかうまいのかとんと分からない。画面は「舞台装置的」とでも言うのでしょうか、まるで大昔のTV時代劇にあった舞台セットのような構成です。「てなもんや三度笠」で分かりますかね、現代ならさしずめ「よしもと新喜劇」かな。画面にも上手下手(かみてしもて)がある感じで物語が進みます。その舞台に登場するのが何とも怪しげなキャラクターたち。間違ってもまともな人は出てきません!
  
  
  
かれらの風体デザイン自体ほとんど常軌を逸しているのですが、ご本人たちにその自覚はまったく無いようで、なんとも能天気なセリフと行動ながら、各自それなりに目的意識はしっかりしているようです。善玉は善玉、敵役は敵役として、それなりに一生懸命なのですが、一生懸命にやればやるほど笑えてしまう。
  
  
  
そのギャグのセンスが、これまた通常のものとはまるで立ち位置が違う。なんていうのでしょう、「昭和一ケタギャク」と言えばよいのか分かりませんが、なんとも懐かしいレトロな味とテンポで次々に繰り出されるのですが、これがまったく即興的で、展開が読めない面白さにあふれています。また、食べ物ネタが多いのも特徴なんでしょうね。しかも自分がせいぜい小学校低学年時代までの経験なら分かるかなという感じの、戦後的食べ物センス(コロッケ5円とか、だんごだまんじゅうだおにぎりだという感じ)がまた笑えます。
  
 
  
この文庫のすぐ後に「杉浦茂ワンダーランド」というタイトルでベップ出版からプチ全集が発売されたのをこれまたツマミ買いしたのが画像の3冊です。それぞれ「ドロンちび丸」、「少年西遊記」、「猿飛佐助」ですが、本のボリューム優先で編集し掲載しているようで、タイトル作品を完全網羅しているわけではなく、例えば前述の文庫に掲載されている話はこちらには載っていません。
  
  
 
そんないい加減な編集にもかかわらず、作品のパワーに圧倒されて、入手してからいつの間にか20年以上も経ちますが、さんざん読ませていただきました。どの作品も時代を超えたパワーを持っていますが、同時に濃厚な「昭和の味と香り」に浸れる癒しの感覚が素敵です。「全方位子供向け」の衣の下から時々のぞく批判精神も調味料にしながら、とにかくゆるい、ゆる~い味付けは、他のどんな作家もよせつけない、ある種孤高の個性だとおもいます。
  
  
  
杉浦先生は、ご自身の作風に関しては即興性と自由な発想を何より重視して、誇りを持って拘られていたと読んだ事があります。後期はかなりシュールレアリズムな印象の作風であったようです。自分の印象はこの手持ちの本に尽きるのですが、想定読者である当時の子供たちの笑顔を思い浮かべながら、思いつくまま一生懸命に作品に取り組む、先生の暖かさや懐の深さを感じて、何度読んでも幸せな気分になれる作品たちですね。
  
  
  
これからも、何度も読んでゆくんでしょうな、きっと・・・

2010年7月18日 (日)

ジョージ秋山「ザ・ムーン」 それはダークサイド・オブ・ザ・ロボットマンガ

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今でこそガンダムやエヴァのように、社会性や精神性を重視する難解なロボットアニメがフツーに受け入れられていますが、このジョージ秋山先生の「ザ・ムーン」は、1970年代初頭の作品にして、すでにそれらを凌駕するくらいのダークな問題作でありました。

  
  

70年代初頭といえば「マジンガーZ」。永井豪先生の作品ですので、破壊のカタルシスにおいてはすでに少年誌の常識枠を超えていたとおもいますが、精神性においては「デビルマン」などと比べれば、先生としてはエンターティメントにふった作風だったと自分は考えています。

  
  

マジンガー以来、ロボットマンガ(アニメ)ブームということで実に多くの作品が作られ、けっこうそれなりに精神性を重視したものもありました。しかし主人公の心の葛藤を本当に深掘りした作品となると、「機動戦士ガンダム」の出現を待つことになるというのが通説でしょう。

  
  

そう考えるとマジンガーと同時期の(むしろスタートは早い!)この「ザ・ムーン」は、当時のロボットマンガとしては異例中の異例の作品、となるとおもいます。作品のコンセプトは決して巨大ロボットがかっこよく戦う事ではありません。そのロボットを(半強制的に)託された少年少女(しかも赤ん坊まで含まれる!)が、「正義」とは何か、守るべきものは何か、という巨大なテーマと対峙し、悩み、傷つき、戦い、そして最後はそれを勝ち取る事ができずに死んでゆく、という、少年誌向けの作品としてはとてつもなく重く、暗く、救いの無いストーリーがそこにあります。

  
  

60年代にギャグマンガで人気を得たジョージ秋山先生は、70年代に入ると突然、「アシュラ」や「銭ゲバ」といった、社会性たっぷりの超問題作を発表されました。そして、1973年には「浮浪雲」で、またまた作風をがらりと変えます。この「ザ・ムーン」は、まさに「アシュラ」の時代の作品で、赤軍派だ公害だロッキードだという、高度経済成長が生んだひずみに社会が揺り動かされていた時代性の中で、ある意味出るべくして出てきたのかもしれません。

  
  

主人公たちは「正義とは何か」を追い求めるのですが、「正義」は一つではない、という問題提起が作品内で繰り返しなされます。そして「正義は力だ」という論理と戦いながらも、それを否定しきれない苦悩もいやというほど繰り返し描かれます。このロボットは、9人の子供が同じ意識で力を合わせないと動く事すらできません。純粋な心をもつ(はずの)子供たちでさえ、一つの気持ちになかなかまとまれないもどかしさ。そして、たとえ心を一つにできても、それで全てが解決できるわけではない無常感・・・

  
  

1972年から1年程度週間少年サンデーに連載されたこの作品、自分は当時床屋の待合室で、本当に断片的に読んだだけでしたので、長い間ナゾの作品だったわけです。1997年、小学館文庫を入手してようやく全部を通読したのですが、正直これほどまでの、読むこと自体が辛いほどの異色作とはおもっていませんでした。

  
  

大人になってから読んでも、心にトラウマが出来てしまうほどの作品。連載当時読み通した少年たちの心には何が残ったのでしょう。エヴァやガンダムの主人公の心の葛藤が浅薄で甘ったれにすら感じてしまうほどの凄みをもったこの作品。完成度という観点でとらえれば、「名作」でも「傑作」でも無いかもしれません。それでも、あまた読んできた「名作」や「傑作」以上の衝撃を受けた作品であり、出会っておくべき作品であったともおもっています。

2010年7月17日 (土)

いしかわじゅん「約束の地」 それは早すぎたゴール

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どの分野にしろ優れたクリエーターはそれぞれ独自のスタイルを持っているわけですが、それを確立するまでが大変なんだとおもいます。ただ、中には比較的早い時点でそれを極めてしまう方もいて、いしかわじゅん先生も、そんなタイプだったのではないかとおもっています。

  
  

講談社ヤングマガジンコミックス版の「約束の地」第一刷です。1981年8月10日発行となっていますが、残念ながら連載時の正確なスケジュールが不明なのですが、「憂国」「至福の街」より若干後で描かれたのではないかとおもいます(正確なところをご存知の方、教えてください!)。

  
  

個人的に、本作「約束の地」は、いしかわ先生の最高傑作と考えています。異論はあるでしょうし、それを承知の上で。本来のギャグマンガ路線では、この後も素敵な作品をそれはたくさん描かれていますし、シリアスなラブストーリー(「スキャンダル通信」、「東京物語」など)や、評価の高い実録風マンガ(「フロムK」など)のように、多彩なジャンルでご活躍です。

  
  

それでも、この「約束の地」が別格とおもうのは、骨格となっているSF仕立てのストーリーの壮大さと確かさです。70年代当時のSFやミステリーの一つのトレンドであった「キリスト日本人説」を背骨に、米ソ冷戦ネタをたくみに組み入れ、国内外の政治の情勢から宗教から超能力、ウイルスや核兵器の恐怖まで、まるでありとあらゆるクライシスなネタをるつぼに入れてすりあわせるような無茶なパロディでありながら、ほとんど破綻なく分かりやすくまとめているのは驚嘆に値するとおもいます。しかも、序盤の、国内のほとんど限定された「小さな問題」が、徐々に徐々に拡大して最後は世界を巻き込んでゆく展開は、難しい流れとおもいますがテンポ良くしかも非常にスムーズで、見事というほかありません。

  
  

そこに絶妙に絡むのが、例の差別ギャクを主体にした「いしかわワールド」です。そのおふざけ度は「憂国」をはるかに超えて、持ちネタのありとあらゆるギャグ手法を惜しみなくつぎ込んでいる印象です。さらに青年誌連載らしく、お色気描写もけっこう容赦なく、並みの作品でしたらけっきょくただのギャクマンガとして脱線してしまいそうなのですが・・・

  
  

凄いのは、これだけギャグで寄り道しまくり、話をかき回せているのに、基本のシリアスな骨格がまったく揺るがずぐいぐいとまっすぐにストーリーが進んでゆくことです。そして、最後の数ページに描かれた「破壊」と「再生」のシーンは、もうギャクなのかシリアスなのかすら判断がつきません。そしてそのラストシーンは、「シリアスな終わり方」を気取った壮大な「パロディ」なのでしょうけど、果たして本当に額面通り受け取ってよいのか、判断に迷います。「至福の街」のこともあり、先生にまたまたうまく引っ掛けられているのではないかという疑念が、初めて読んでから30年たつ今でさえ、頭からぬぐう事ができません。

  
  
  

自分の知る限りでは、いしかわ先生のその後の作品で、ここまでの大仕掛けなものを知りません。もちろん作品の価値は、「大作」だから尊い、というわけではない事は十分に承知しているつもりです。それでもあえて、この「約束の地」は、自分から見ていしかわ先生の最高傑作であるとおもっています。つまり、この作品こそが、いしかわじゅんというクリエーターの「約束の地」だったのかもしれないとおもっています。そして、そこにあまりにも早く到達してしまったゆえに、むしろここから旅立つ事が、難しかったのかもしれません。

2010年7月10日 (土)

鴨川つばめ「マカロニほうれん荘」 ギャクマンガの最高傑作は天才が描いた切ない軌跡

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51年の人生で、もちろん数々のギャクマンガを読みましたが、この「マカロニほうれん荘」はその中でもおそらくもっとも印象の強い作品でした。連載当時類を見ない斬新な作風然り、様々な分野からのマニアックネタのパロディ然り。そしてなんとも切ない消え方まで・・・

  
  

本作は、1977年から1979年まで、週間少年チャンピオンに連載されました。当時のチャンピオンはおそらく全盛期で、「ドカベン」、「ガキデカ」、「750ライダー」、「ブラックジャック」など、日本漫画誌に燦然と輝く名作が、ほとんど同時に連載されていたという、今おもうと夢のような時代だったわけです。

  
  

そんな中にまさに忽然と登場したのがこの「マカロニほうれん荘」でした。本作の凄さはあちらこちらで詳しく語られ、分析されていますので、自分にはそれ以上の情報は持ち合わせていないのですが、それにしても事実上の新人漫画家のデビュー作品が、手塚先生を始めとするそうそうたるメンバーで占められていた黄金時代の少年チャンピオンの中で、あっという間にトップクラスの人気を得てしまったのですからそれはものすごい事だったわけです。

  
  

特に連載期間の前半の作品については、ものすごいエネルギーを感じましたね。よくジェットコースタームービーといいますが、まさに物語の展開がそんな感じで、手に負えないくらいのスピード感がありました。そのスピードに負ける事の無い濃密なギャグの数々も、ただくだらない事を言うだけではなく、変身あり、パロディネタあり、格闘あり、ちょっとエッチなシーンありと、ほとんどのシチュエーションが複合技になっているところが凄い。つまり、ギャグに厚みがあるという感覚というのでしょうか。それはそれまでに「体験」したことのない感覚でした。

  
  

影響されて、トシちゃんのギャクネタをずいぶん物まねした記憶があります。友人でもファンが多かったのでね。また、特撮系や戦争映画系、飛行機や戦車、昔のマンガや映画のネタなど、非常に広範囲の分野から気の利いたパロディを繰り出してくるのもお気に入りでした。まさにいろいろな面で、ツボにはまった作品でした。

  
  

ところが後半になると、徐々に作風にスピード感やキレがなくなってきたのを感じ始めました。中期には作画技術も非常にレベルが高くなっていたのですが、後期には意図的にか分かりませんが、かなりラフな作風になっていった気がします。そして連載最後の頃には、なにか哀愁のようなものすらただよい出して、もう素直に腹を抱えて笑えない感じになっていました。

 
  

後に、鴨川先生の体調の事など、いろいろあったと知りましたが、一人の「天才」の苦悩がそこにあったとすると、本当に、本当に残念でなりません。天才ゆえに、比類なき新しいものを生み出し、それゆえに、産み出したものが一人歩きし巨大化する、その重圧と戦い続ける宿命のような苦悩・・・それでも、自分にとっても、そして大げさでなく、日本のギャクマンガの歴史にとっても、「マカロニほうれん荘」は本当に、本当に重要な作品であったと今でも信じています。今読み返しても、当時とまったく同じテンションで笑え、そして寂しくなる。同じパワー、同じ輝き、同じだけの苦悩を保ち続けている・・・

 

 

 

ひょっとすると、「面白うてやがて悲しき」という世界観を、「作者」が「作品」と一体になって人生をかけて体現してしまったのでしょうか。だとすれば、そこにこそ鴨川つばめという作家の稀有の天才性があったのかもしれません。もしそうならば、この作品の真の価値は、すべての話を通して読んだときにこそ、理解されるべきものなのかもしれません。しかし現在、発表作品のすべてが網羅された作品集は、残念ながらありません・・・

2010年7月 4日 (日)

いしかわじゅん「至福の街」 ギャグキャラに仕掛けた壮大なトリック?

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いしかわじゅん先生のマンガは特に80年代にかなり読みました。ギャクマンガ家のイメージが強いのですが、この「至福の街」(1980年作品)は徹頭徹尾シリアスな作品です。当時は少しばかり違和感があったのですが、その理由は分かりませんでした。

  
  

画像は所有している双葉社版の短編集で、1985年12月第一刷発行となっています。80年から85年までにあちらこちらで単発的もしくは短期連載で発表した短編を集めた形で、巻末に自註という形で作者自ら簡単な作品説明をしています。思えば、漫画評論家としてのいしかわ先生の、片鱗がうかがえて興味深いですね。

  
  

寄せ集め的な(失礼!)短編集ですので、その分収録作品はバラエティに富んでいてとても楽しめます。その中でもタイトル作の「至福の街」は、かなり異彩を放っているように感じます。それは基本的に「シリアス」な作品である、つまり彼の作風としては意外性があるという理由によるところが大きいのですが、それだけは語れない異様さのようなものを発散しているようにおもいます。

  
  

テーマが「宗教」、特にキリスト教がらみの作品は、「約束の地」をはじめ、初期いしかわ作品ではおなじみの設定ですが、通常はギャグのネタとしている(それ自体ひやひやものですが・・・)のに対し、本作ではそれをSFと結び付けて、宗教の根源まで踏み込んだような、なかなか本格的な仮説を骨格にしています。もともとSFにはお強いようで、様々なSF小説や映画をもとにしたパロディギャグはお手のものですが、このやや長めの短編(48ページ)の設定は、そういうお気楽な作品とは一線を画した練りこみがなされている、レベルの高いものだとおもいます。

  
  

ところが絵柄がね、いつものギャクマンガの絵柄そのもので、どう見てもシリアスな話を描いているとはおもえない。悪い事に、いしかわ先生のギャグのお得意パターンが、「まじめなふりをして実にくだらないネタをやる」という作風ですので、劇画調の絵ですらギャグの道具立てにしてしまうのですからね。読み始めてからいつ本性を現すのか、それが気になって、どうも本気でのめりこめませんでした。

  
  

で、気がつくと最後まで読み終えている自分に気がついて、あれれ?というところで。なにかだまされたような気になってしまった記憶があります。で、実は巧妙に隠されたギャグ的なトリックがあるのではないかと、もう一度読み返したりして。そこでようやく、本当にギャグマンガではなかったんだと理解して、そこから「シリアスもの」としてどうだったかと改めて考えをめぐらすことになったわけです。で、当時は何ともモヤモヤした読後感が残ったというわけで。それがけっきょくはこの作品の印象を強くしていたポイントであった気がします。

  
  

今読み返すと、改めてこの感覚が面白いとおもいましたね。いしかわ先生の術中にはまって、罠をかけられていた気がしてきました。しかもこの「罠」は、この作品単独の仕掛けではなく、彼の作品全体からくる「作風」を利用した壮大なトリック、と言えるのではないかと。つまりいつものギャグマンガキャラにこの壮大な宗教的SFを「シリアスに」演じさせることによって、事態の深刻さをよりきわだたせる。オチャラケている場合ではないのだぞという警鐘を、逆説的に強調表現する。それが狙いだったのではないかと、そんな事を深読みしてしまいました。

  
 
 

真偽のほどはわかりません。実は単純に当時はあの絵柄しか描けなかった(失礼!)だけだったりして。でもいずれにしても、あの絵柄であの内容だからこそ、何ともミステリアスで奥行きを感じる作品になっていることは間違いないとおもいます。フツーのリアルプロポーションの作画だったら、ごくフツーのSFで終わっていた事でしょう。また、単純にギャクマンガ家が描いたシリアスな作品という枠を超えた作品ともおもっています。「シリアス」と「ギャク」の狭間を自由自在に泳ぎまわることを真骨頂とする、いしかわ先生ならではの「衝撃作」であると、今の自分は理解しています。

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